町家

この家は、
倉敷の旧家大橋平右右衛門家
国指定重要文化財の
別宅として建てられたものを、
昭和四十一年、
現在地に移築したものである。
倉敷には大橋姓が数件あるため
大橋本家を「元大橋」といい、
この家は本家の五十メートルほど西方にあったので
「西大橋」と呼ばれていた。

大橋家は大原家とともに江戸後期における倉敷の豪商の一軒であったが1866年(慶応2)に倉敷地方を震撼させた代官所襲撃事件として知られる「倉敷浅尾騒動」以後にようやく家運が傾いていった。
 騒動の首謀者が大橋家の養子、大橋敬之助(のち立石孫一郎)で騒動の後長州へ去り、幕末の物情騒然とした渦中に消えてゆくことになり、これが大橋家にとって悲運の始まりであった。
敬之助は正義感の強い寛骨精神の持ち主であったため他の奸商が代官と通じ利を貪るのに耐えられず、不正を暴くなどしたため憎まれついに身を立て難くなって事件の2年前に倉敷を出奔し長州の第二奇兵隊に身を投ずるにいたるのである。

 敬之助は1848年(嘉永元)に作州立石家より大橋家へ養子に入り1860年(万延元)には村役人として年寄役をつとめている。この西大橋家の住宅解体の時「万延元年申九月」と年紀のある瓦が見つかっているのでおそらく養父平右右衛門が敬之助の年寄役就任を機に新居を建ててやったものではあるまいか、しかし1864年(元治元)には妻と二男一女を残して長州へ向かったとされている(角田直一著「倉敷浅尾騒動記」)ので、敬之助が西大橋に住んだのはわずか3年あまりということになる。
 ともあれこの倉敷浅尾騒動は幕末における尊王攘夷の騒然としたとき地方に燃えあがった狼火にも似たものであった。

 結末は哀れにも無残な事件であったが動乱期におけるひとつの抵抗運動として意義深いものがあった。
 西大橋家は明治34年長谷部眼科医院となりのち総社より倉敷へ出た大橋家のゆかりの亀山内科医院になった。亀山家も当主が東京勤務になり一家上京されたため昭和30年頃から無人にしていた。
 森田家は江戸時代の中期、宝暦ごろに児島郡福田村から倉敷へ移ってきたときいている。

 はじめ何を生業としていたかは不明であるが、三代から四代のころは陶磁器商であったという、五代仙蔵のころ畳表問屋をはじめたようで明治30年ごろの江戸積畳表問屋の一人として早島町史に名前が記載されている。七代尚二のとき畳表の仕事を叔父、源二にゆずり大正3年から酒造業をはじめた。
 源二は分家して倉敷市旭町に大原孫三郎を社長とする「日本莚業株式会社」を設立し、畳表、花莚の仕事を続け、現在は長男孝平が早島町出身の矢吹貫一郎氏発明による「倉敷緞通」の製造をしている。

 父尚二は酒造業を営むかたわら「倉敷ガス株式会社」(のち岡山ガスと合併)の創立に関係し、のち「倉敷綿布株式会社」を設立、また「三和無尽株式会社」「倉敷信用金庫」の理事長、「倉敷商工会議所」第三代会頭などを歴任した。
 晩年は美術、囲碁を趣味として自適の生活を送った。
 家は倉敷の町屋の定型的なもので、本瓦葺、切妻、小屋組は登り梁を用い、妻に附け庇をもち二階の窓は「倉敷窓」(角柄格子窓)五コをつけ、軒うらは出し桁としてしっくいをぬりこめ火に対する配慮がされている。

 一階前面には玄関入り口両側に「倉敷格子」(親付切子格子)をつけてある。町屋の特長である「通りニワ」は奥行十間(現状は変更)。
 間取りは元大橋家と似ており、ミセ、ナカノマ、イマ、台所とザシキ二室があった、二階はいわゆる厨子二階で主に物置として使用されていたようであるが、納戸部分の二階には畳が敷いてあり住まいにしようされていた。広さは延坪で約130坪あまりであった。
 移築に際し敷地の地形の関係で二分の一の広さに縮小し内部をやや現代風にアレンジしてみた。住まいとしては手頃な広さとなったが移築前の堂々とした近世民家の良さは失われてしまった。

 工事は倉敷の藤木工務店によって施行された。明治の職人の気質を持った老大工さん二人が中心になって面倒な工事にも関わらず良心的な仕事をされ移築する前の感じを部分的に残すことができた。
 工事が終わったとき老大工さんが、「森田さん、この家はこれからまだ百年はもちますよ。」と言ってくれた。巨大な棟木や登り梁、17センチ角のクリの柱、ザシキは13センチ角の肥松など地松やクリ、ケヤキなどを用いた江戸末期の木工技術の最高の時期の建造物であるだけに大工さんも自信を持って百年は大丈夫といってくれたものと思う。

 それにしても、良材を用いて伝統的な工法で施行してある古い民家を、暗いから、不便だから、プライバシーがないからなどとして簡単に耐えないような住宅を立てているのを見るにつけ日本の点灯的な建築文化が新建材の普及や木工技術の低下、或いは住まいにたいする考え方の変化によって戦後しだいに退化しつつあるように思われる。
 木造建築は江戸末期から明治20年ごろまでが最高の技術水準を保たれていたという。新しい技術や材料を否定するものではないが文化という見方からすれば残念ながら現代の民家は近世のものにくらべ未だ遠く及ばないのではあるまいか。


書物『森田家のこと』より抜粋